『湯けむりサンクチュアリ』(天野しゅにんた、一迅社)感想 - みやきち日記
この例えすげーおもしろいなあ。
kagurazakaundergroundresistance:
2008-10-09sft:
suyhnc:
神
神と言うものは、GODではない。
精霊でもない。
人間のことでもないが、人間も含まれる。
それは生死も常識も超えた概念である。
神とは”うえ”を意味する概念である。人知という限界を突破した存在を、古来より日本では神と呼んだ。お隣の中国では神の上に仙人という概念があるが、日本では神より上に明確な区別も、序列もつけない。宮廷では神々にも一応、建前で序列がついているが、それが建前であることは、つけている人々も良く知るところである。結局のところ、敬う点ではなんの変わりもないのである。 だったらみんな神様でいいじゃないかとは、我がご先祖ながらアバウト、否、日本的に良いこと考えるじゃないかということである。
神の実例を話そう。我々は神に良く触れる。あるいはその息吹に良く触れている。それを感じない人間は、まずいない。誰であっても。
サイコロを10回振って1が10回出たら、それは人知の超えるところである。
これは神がかりであり、神が近くにいることをしめしている。運が良ければ幸運の女神、運が悪ければ不幸の神がそこにいる。人知を超えるものがあれば、とりあえずなんでも神であると思えばいい。天気が良かったら青空の神がいる時があると、考えるべきであろう。出来すぎの展開であれば神々がいそうだなと疑ってかかったほうが、楽しい。
そういう意味で言えば、雨女は神がかっているのである。もちろん、それ以外の可能性もある。神がかりではなく、神そのものであるケースである。雨女は自分でも自覚せずに雨の女神であることのほうが、圧倒的に多い。この国で神は普通すぎて、良く本人も自覚していないことが普通である。
この例に限らず、人知を超えればそれは例外なく神である。猫が喋ったら、それは猫の神様である。株で信じられない大儲けする人は当然のように株の神様であり、これが野球なら打撃の神様、榊さんなら整備の神様である。 まこと日本には神々が多い。ご先祖に神々がいない人はたぶんいないし、今実際、神として存在するもの、あるいは神となろうとするものも、別にそう珍しいわけでもない。神話の時代より比率的には随分減ったが、それでも800万は神がいるとして人口の7%くらいは神である。(人外も入れればなんとか15%くらいにはなるだろう)
生まれついての神もいれば、努力して神になるものもいる。日本では、この差に上下はつかないし、多くの場合、努力して神となった者こそを人は敬う。
神は死ぬし間違いも犯す、うんこもするが、それは別に神々の価値をさげるものではない。
元々そういうものだし、七つの世界を通じて問題のない存在など、一つもありはしないのである。
それと、神は何かを導かない。化け物や天魔は人を惑わして導くが、神は導くことはしない。一緒に悩むのが神の神たる所以である。神がリーダーになる時はあってもリーダーが神ではない。
神という概念は生きても死んでも神である。一度人知を超えたのであれば、本来なにがあっておかしくはない。死んだ打撃の神様がリトルリーグの試合で少年の肩に降臨しても、そんなことはまったくおかしくもなんともない。だって人知を超えているんだから。
神々に接したら敬うべきである。これが神かどうかわからないなら、疑わしきは敬うのが普通であろう。
それが日本の礼儀の本質である。偉そうな貴族も武士も西洋の概念であり、この国の考え方ではない。地上のいかなる地位も栄光も、神々には関係ない。神の上にはなにもないし、神は世俗という名の人知を超えている。
だから神々に接する可能性があるとき、つまるところ良く知った者でなければ、猫が相手でも桜の木が相手でも、貴族も坊主も社長も丁寧に優しく話すのが普通である。
kagurazakaundergroundresistance:
2009-01-19laft:
かみちゅ!の画像ください あんか〜びっぷ

